■ 自分の世界2024.3.17


池田は、子供の頃から文章を書くのが好きだった。
小学校では作文の時間が待ちどおしく、白い原稿用紙の升目に自分の世界を埋め連ねた。
「池田君、君が書いたことは本当のことなの」
そこには、担任の女教師が周章(あわ)てるほどの、夢想の世界が書かれていた。
池田にとって空想に遊び、それを物語にすることが至福の時間(とき)だった。
そして、読む者を驚かせるのが楽しくて仕方がなかった。

中学生になると、教育委員会の読書感想文コンクールで一等入選し、地元新聞社の文芸賞では、中学生の部で最優秀賞をとった。
このとき池田は将来小説家になると決めた。
高校では仲間を集め文芸サークルを立ち上げたが、二年生になってから学校と掛け合い部に昇格させ、部長になった。

年二回同人誌を出し、県内の本屋に置いてもらい、新聞社や出版社にも送った。
それは粗末なものだったが、学校からの交付金や部員の部費ではとうてい出せるものではなく、部員の親や部担当教員の好意にすがり、挙句は部員のバイトで何とか賄った。
三冊目を出したときだった。
池田に中央の出版社から会いたいとの連絡がきた。
池田は喜び勇んで上京した。

編集者は、池田の作品は粗削りだが、磨けば可能性があると説いた。
そして、同人誌に書いた三十枚の作品を、百枚ほどに書き直すように求めた。
池田は、なんとか三ヶ月後百三十枚に仕上げ送った。
編集者は、編集会議で数箇所書き直した上で、出版することが決定した旨を電話してきた。
自分の作品が本になるのは夢だった。
池田は素直に嬉しかった。

両親にはそれまで黙っていたが、大学進学はせずに作家の道をめざすと宣言した。
するとやはり、何になるにしても取り敢えず大学だけは出ておけと、大反対された。
ところが本が出版され、S文学新人賞の佳作を受賞すると、大学のことは言わなくなった。
受賞は逃したが、池田には担当の編集者がつき、次の作品を書くよう追い立てた。
以後三冊出版したが、ほとんど売れなかった。
池田は編集者にあれこれ指示されるのは苦痛だった。
自分の好きなように書きたかった。
やがて出版社は離れていった。

池田はそれを幸いに、アルバイトをしながら伸び伸びと自分の世界を書き続けた。
書いたものは、文学好きの友人や知人に読んでもらっていたが、その中に地元の新聞社に勤める者がいたのは僥倖だった。
新聞社の文芸部は池田の力を認め、連載小説を書かないかと打診してきたのである。

以来、地方作家として六十五歳のいままで書き続け、著書は十冊を超えるまでになった。
根強いファンがいてどれも数万部は売れたし、なかには十万部売れたものもある。
市内の私立大学では、非常勤ながら日文の講師をしていることもあり、贅沢をしなければ食うに困るようなことはなかった。

世渡り下手で金儲けなどに縁がなくても、世間に迷惑をかけるわけでなく、読者には夢想の世界に遊ぶ楽しさをふりまいている。
一緒になって三十五年になる五歳下の妻は、太い万年筆をしっかり持って原稿用紙に向かう、そんな池田が好きで誇らしかった。

2019.4.12




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