■ 闖 入(1)2024.5.3


「先生、大変です。野島屋さんの自宅に税務署が来ているそうです。3人も来ているって言っています」
「なにい、調査か。よしわかった。すぐ行く」

税理士の池田一郎は、地元の商工会議所の、ある委員会に出席していた。
10時に開始された会議は11時半には終了し、仕出し弁当が配られ早い昼食をとっているときだった。
携帯電話に事務所から電話が入ったのである。

28歳で会計事務所を開業して25年になるが、税務署が池田に何の連絡もなしに調査に来るのは滅多にあることではない。
池田は食事を済ませると、車で野島屋の自宅へと急いだ。

株式会社野島屋は2つの居酒屋を営業していた。
野島良男が20年前、40歳で開店したのである。
池田は野島屋創業当時から、顧問税理士として会計決算と税務申告を任されていた。

野島が最初自宅近くに出した本店は繁盛し、税金対策に追われるほどだった。
野島はこれに気を良くして3年後、隣町に支店を出したが、温泉街ということもありライバル店が多く、思うように売上は伸びなかった。
それでも2店舗合わせれば、家族が食っていくには十分で貯えもできたが、ここ数年は売上が落ちて4年前に改装した本店の借入返済に追われていた。

決算書も赤字を積み重ねていたので、なぜ税務署が調査に来るのか、池田には解せなかった。
ただ、これまで20年間、一度も調査がなかったこと自体が稀なことであり不思議に思えた。

通常、税務署が調査に入る場合、日程を税理士に連絡する。
これを事前通知という。
税理士はそれを納税者、すなわち顧問先企業に連絡し、3者間の日程が調整される。
今回、税務署がそのような手順をふまなかったのは、野島屋が居酒屋で現金商売ということがある。
現金商売は売上の除外など、不正の現場を押さえる必要があるからである。

野島の自宅には15分ほどで到着した。
玄関を開けると挨拶もせずにあがりこんだ。
すぐ脇にあるリビングで若い男がコピーをとっていた。
手軽で安いコピー機が出回り、税務署は証拠集めのために持ち歩くようになったのである。

2階の応接室兼事務所はドアが開けっ放しで、野島の妻秋江が呆然として立っていた。
どうやらこの部屋は粗探しが終わったようで、帳簿や書類が散乱している。

その向かいが夫婦部屋で、これまで池田は一度も入ったことがない。
この部屋もドアが開いており、ダブルベッドに胡坐をかき腕組みした野島が、憤怒の目を2人の男に向けていた。
ここまで押し入って来る彼らのやりかたは、えげつなさを超えるものといえた。

若い方は化粧台の引き出しを漁っている。
チーフ格と思える30代半ばの方は、上着を脱ぎシャツの袖をまくり上げ預金通帳を手にしていた。
彼は片手で身分証明書を池田に示した。
黒田辰巳という名前だった。
生年月日を見落とした池田は、自分が動揺しているのを覚えた。

池田も、身分証明書である税理士証票を呈示すべきであるが、意識してそれをせず名刺も出さなかった。
「税理士の池田です」と告げただけで、声を大きくして言った。
「社長さん、これは任意調査だから、プライベートに関することや言いたくないことには、答える必要ありませんからね」

もっとも、ここまでやられてしまったのでは後の祭りである。

税務署のこのようなやり方は現況調査というが、納税者はこれを拒むことが出来る。
調査は質問検査権に基づく任意調査であり、納税者の同意を得た上でないとやれないのである。
ところが、いきなり何人もの税務職員に乗り込まれれば、木石でないかぎり冷静な対応は出来なくなる。
そもそも税務署への応対自体経験がないことなので、言いなりになってしまうのは当然で、そこが彼らの狙いなのである。
まさに納税者の弱みに付け込むやり方といえよう。

池田は夫婦部屋を出、秋江にこれまでの様子を尋ねた。
「店の方も1人ずつ来て、ゴミ箱にまで手を入れていたって、電話があったわ」

野島屋は2年前から昼の定食も営業しており、その仕込みに職人が10時前には店に入ることになっているのだ。
どうやら税務署は5人がかりで、3ヶ所同時にふみ込んだようである。

しばらくすると黒田たちが事務所に入って来た。
「野島さん、これはお預かりするものの明細を書いた預り証です」

化粧台を調べていた職員が、持ち帰る売上日報や預金通帳などを示し、預り証を野島に渡した。
「それじゃあ先生、今日はこれで終わります。次のことはまた連絡しますから」

黒田が終了を告げた。

税務署が引き揚げると1時を過ぎていた。
「センセ、なんで税務署がうちなんかに来るんですか。儲かってないのに」

秋江は血の気が褪せた顔を池田に向けた。
「奥さん、安心してください。私が知る限り、売上はごまかしていないんですから」
「だってあの人たち、私らの預金通帳まで持って帰ったわ」
「誰だって叩けば多少のほこりは出るもんです。だけど、野島屋さんはそれもたいしたことないと思いますよ。まあ、後は税務署の出方を待ちましょう」

多くの税務調査は、1人の職員が朝9時半頃から夕方4時半頃まで、納税者の店や事務所に出向いて2、3日かけて行われる。
それと併せて取引先や銀行なども調べる。
これは反面調査といい、不正の裏付けをとったり、金の流れを掴むための常套手段になっている。

野島屋の場合は事前通知なし、しかも3ヶ所同時に来て昼一時には終わっているので、現場に残されたメモやレジペーパーなど、原始記録といわれるものの収集が目的であったことがわかる。
預金通帳などは野島個人やその家族のものにまで及ぶ。
そこらにあるマッチやライター、ティッシュ、カレンダー、卓上の電話番号表などから、隠匿している銀行預金や取引先がないかも探る。

今回の調査で彼らは、預り証に記載した資料以外に何をメモしコピーしていったのかはわからない。
しかし、池田は彼らが追う不正の証拠など出ることはないと確信していた。

翌日の朝一番、電話が鳴った。
秋江からだった。
「センセ、昨日、信用金庫から連絡がありました。あれから税務署の人が来て、いろいろ聞いていったらしいですよ。何だか心配だわあ」
「銀行調査か。税務署も無駄なことをするもんだ。奥さん安心してください。昨日も言ったように大丈夫ですよ」

信用金庫ばかりか、事前に黒田たちが野島屋の店に来ている可能性も高い。
客として訪れ自分の注文伝票に何らかの印しをしておき、調査の際にその注文伝票があるかどうか、さらにその内容をその日のレジペーパーと照合し、売上が除外されていないかを確認するのである。

これは事前調査というが、証拠能力としては最も高いものとなる。
池田は野島と秋江に、最近黒田らと思われる客が来なかったどうか店の者に確認させたが、そんな気配はなかった。

ところが、少し気になることがあった。
それは秋江が心配していた預金通帳のことである。
会社と個人間の金の動きなら説明がつくと思ったが、個人同士のことになると手に負えなくなる。
日頃からそこまでは目が行き届かないからである。

よく問題になるのは、親子や家族間の金のやりとりである。
それらは正当な理由がなければ贈与と認定され、贈与税が課税されるケースが多いのである。
秋江には大丈夫とは言ったものの、この点が引っかかっていたのである。

野島は日頃から口の重い男ではあったが、今回のことについて、ひと言もないのも気がかりだった。

さらに2日後、黒田から池田の事務所に電話がかかってきた。
「ああ、先生。野島屋さんの件ですが、だいたい結果が出ましたので、明後日の10時に税務署の方へ来ていただけませんか。野島さんにも一緒に来てもらうことになりますが」

池田は意外に早く調査が済んだと思った。
これまで1ヶ月以上かかることも珍しいことではなかったからである。
やはり今回の場合は、現金商売で反面調査のやりようがないところがそうさせるのである。

彼らははたして事前調査をやったのか。
そうであればどの程度の証拠を掴んだか。
現況調査でゴミ箱まで漁った結果どんな有効なネタを得たか。
預金通帳や売上など金の動きにどんな問題を発見したのか。
これら3点が税務署との間で争点になると池田は考えていた。

さっそく野島に電話をした。
「社長さん、税務署から電話があって、明後日の10時に来てくれとのことです。調査の結果が出たようです。奥さんも一緒にお願いします」
「家内もですか。私だけではだめでしょうか」
「ええ、ぜひ来てもらってください。奥さんずいぶん心配してましたからねえ」
「……」

2013.1.8




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