■ 闖 入(3)2024.5.3


野島と秋江が目を交わし、手提げ袋に資料を入れようとしたときだった。
「野島さん、野島さんの通帳から時々まとまった金が送金されていますが、あれはなんですか」
黒田の低い声に、野島が弾くように腰を浮かした。
椅子が二段跳びして倒れた。
「いえね、個人のことですから、なにも疑っている訳ではないんですが、なんなのかなと思ったものですから」

池田は、黒田の税務職員としてのしたたかさを嫌悪した。
ここで気を弛めてはならないと自分に言い聞かせ、野島の返答を待った。
野島がだれかに送金したのであれば、それが貸し借りでない限り相手への贈与とみなされ、その相手に贈与税が課税される可能性が高い。

秋江が野島名義の預金通帳を見つけるとページを繰った。
それは彼女が初めて見るものだった。
3年前に作られたその通帳からは、確かに30万円、20万円、40万円……と、7回にわたり振り込みの形跡が残っている。
手数料が併せて引き落とされていることから、それがわかる。
「ねえ、あんた。なんなのこれ。私もらってないわよ」
秋江は椅子を後ろへやると、囁くように野島の耳にただした。

池田は2人を掛けさせ、黒田に言った。
「振り込み先はどうせ調査済みなんでしょう。いったいだれですか」
「すべて渡辺真理。住所は本店近くのアパート」

秋江が、黒田を観察するような眼で野島を見た。
「社長さん、渡辺真理さんというのは聞いたことがあるような気がするなあ。お店のかただったかな」
「そうなんです、センセ。真理ちゃんは以前うちの店で働いていたことがあるんです。店の職人の片山と結婚したんだけど、別れたって聞いたわ。まさか、あんた」
秋江の顔の赤味は消えていた。
「社長さんは真面目なかただし、変なことで出した金ではないと思いますけどねえ」
池田は壁の時計を見ながら呟いた。
11時半を過ぎていた。

「真理ちゃんが辞めて6年になるかしら。34、5になったはずだわ。真理ちゃんは男好きのする顔立ちで言い寄るお客さんもいたんだけど、結局五つ年上の片山と結婚したの。私は反対したんだけど子供ができてしまったからって。片山は競馬が好きで休みには遠くまで出かけてたみたい。別れたのは競馬狂いが原因ね。あの男が3年前に辞めたのは店の金に手を出したからなの。だからうちの人が辞めさせたんです」

秋江は、落ちついた口調で2人のことを振り返ったが、少しの間を置くと気色ばんだ。
「ちょっと、あんた。なんで真理ちゃんにお金あげてんのよ。あんたパチンコ行くようなふりして、あの娘となんとかなってんじゃないでしょうね」

「まあ、奥さん。社長さんの言い分も聞こうじゃありませんか」
池田は、まさかこの場所でこんな展開になろうとは思いもよらず、どうやって収めようかと慌てた。
「社長さん、渡辺さんは今どこかに勤めているんですか」
黙り続ける野島に尋ねた。
「近くの小さなパン工場に、パートで行ってます」
野島は顔もあげずに言った。
「ああ、なるほど。パートじゃあ高がしれているわなあ。それで見過ごすこともできずに、助けてあげているんですね」
野島が池田に目を合わせた。
「実はセンセ、真理と片山は別れた後も関係は続いているんです」
秋江が尻をずらした。

「あんな男でも自分の子供は可愛いようで、オモチャやらお菓子を持って訪ねて来ることがあったそうです。そうこうするうちに、よりを戻したってことです」
「へええ、わからんもんですねえ。それで片山さんは渡辺さんと一緒に住んでいるんですか」
「いえ、自分でアパート借りてます。真理には金を渡してくれることもあるようですが、それもわずかで、逆に巻き上げることのほうが多いって聞いてます。相変わらず競馬は止められんようです。真理には生活保護を受けるように言ったこともあるんですが、それだけは嫌だって言うもんだから」
「だからって、なんであの娘にそんなお金あげないといけないのよ」
池田は廊下にまで届きそうな秋江の声に頭がざらついた。
「そりゃあ、私だって真理ちゃんのことは気になっていたわ。早くに両親を亡くし苦労したって聞いていたし、店にいるときもホント真面目にやってくれたしね」
秋江はくちびるを嚙み、窓に目をやった。

野島が秋江に体を向けたときだった。
廊下のスピーカーから昼を告げる音楽が流れた。
このときとばかりに、池田は黒田に結論を促した。
「どうでしょうね。事情がこういうことですし、金額も1年にすれば100万にもなりません。まあ、いいんではないですか」
贈与税には基礎控除があり、年間110万円までなら課税されることはないのである。
黒田は立ち上がって言った。
「さあて、飯にしますか」

2013.1.8




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