■ 文・学・賞・酔・夢・譚2024.5.16


どうにか納得のいく小説が書けた。
100枚程度の作品だが、随分思い入れのあるものだ。
タイトルは『遺すべき言(こと)』とした。
S社の新人賞に応募することを決めていた。
最近は、原稿をEメールで送信するのがトレンドだが、やはり手書きの生原稿を封筒に入れ、ポストに落とすのが、気分としてはいいものだ。
 
福井で、会計事務所を開業して30年になる。
11月の終わり、事務所で昼食を摂っていた。
いつもの塩昆布と梅干だけのシンプルな弁当である。
粗末なようだが、かえってこれがご飯の甘みが引き立ち、旨いのである。
お茶代わりの豆乳とデザートのバナナで、栄養状態を考えているつもりだ。
そのとき電話が鳴り響いた。
「S社から電話です。きっと通ったんですよ」
職員のY子には、新人賞応募を伝えてあったので、いつにない興奮気味の口調で取り次いできた。
「S社のKです。このたびのあなたの応募作品が、選考委員会で受賞作と決定いたしました。おめでとうございます」
「・・・・・・はいはい、ありがとうございます」
思わず2度も頭を下げてしまった。
電話を置くと喜びが全身を突き抜けた。
「やった。とうとうやったぞ」
両手を握り天に突き上げた。
「良かったですね。おめでとうございます」
Y子が手を差し伸べてきた。
その手を強く握り、上下に激しく揺さぶって応えた。他の職員は何ごとかと立ち上がり、事務所内はざわついた。
その日の午後は仕事が手に付かず、今後のことをあれこれと考えていた。
大阪の友人に受賞を知らせると、わがことのように喜んでくれたが、彼はひとこと付け加えた。
「これからが大変やなあ」

慌しくなったのは、翌朝からだった。
9時に事務所に出ると、3回線ある電話全部が鳴っており、その後、職員が対応するものの終日鳴り止まなかった。
S社からは、授賞式と出版打合せに来社せよとのこと。
地元のローカル紙F新聞社からは、取材申し込み。
同じく地元ローカルTV局のF放送からは、出演依頼。
文章修行に通っていた大阪の文学教室からの、講演依頼。
他にも、取材申し込みが殺到した。
当然私は仕事にならない。
事務所としても電話が機能しなくなり、仕事が回らなくなってしまった。
さっそく翌日、事務所でF新聞社の取材を受けることになった。
女性記者は文学好きのようで、経歴ばかりかちょっとした文学論まで、案外鋭い質問をしてくるので驚いた。
カメラマンが、私ばかりか事務所内にまでカメラを向け始めたので、職員に注意させた。その翌々日は、F放送に招かれ、地元同人誌『N作家』を主宰するT氏による、インタビューの録画撮りに半日が費やされた。
F新聞には、1面の左側中ほどに、5段抜き顔写真入りで掲載された。
F放送では、夕方のニュースで報じられ、日曜日の朝のローカル番組で15分間放送された。
その後、各方面からの取材や講演依頼が相次ぎ、スケジュール調整に苦慮させられることになった。
地元のJ大学文学部では、4月から客員教授として、文学概論の講座を持つことになってしまった。
講演に出向いたのは、母校の高校が最初だった。在校当時の教師は1人もいなかったが、校舎の所どころにその頃の出来事がよみがえり、懐かしく楽しかった。
どこにも文学好きはいるもので、講演後にサインをしてくれという生徒と教師が押しかけてきた。
幸い、事務所の職員が有能なので、仕事は何とか流れを取り戻してきていた。

ようやく嵐が過ぎ去り、とりあえずの落ち着きを取り戻したのが、仕事納めとなる12月28日だった。
溜まった自分の仕事を片付けるため、その後も事務所に出たが、大晦日は、家に帰ったのが除夜の鐘が遠く聞こえはじめたころだった。
さすがに、正月元旦は電話もなく静かだった。
のんびりしたのはその日だけで、2日からはさっそく仕事である。
それにS社から依頼された、次の作品も書かなくてはならない。
受賞作は出版が約束されていたが、1冊の本にするには100枚では物足りないため、さらに100枚程度の併載する作品が必要なのだ。
書きたい作品は、新人賞を受賞した時点で決まっていた。
タイトルも決めていた。
『遺された人(もの)』である。
受賞作『遺すべき言』の続編であり、これで遺す側と遺される側両者からのアプローチがなり、完結を果たすことになる。
S社の担当編集者は、新人賞受賞を知らせてきたKであり、東京からわざわざ事務所に訪ねてきた。
彼は、私が書きかけていた30枚の原稿に目を通すと、今度の作品は受賞作の続編ではあるものの、独立した1つの作品として書くことを強く求めてきた。
読者が作品のどちらを読んでも、どちらを先に読んでも、それで完結させるようにするのである。
私は、ちょっと戸惑ったが、さっそく書きかけのものを手直しし、残り70枚も調子よくペンが進み、3月の半ばには書き上げることができた。
幸いKやS社の反応も上々で、4月には初めての著書『遺すべき言』が出版された。
この本はS社の販促戦略にのり、発売1ヶ月で3万部を売り上げ、増刷が追いつかないほどだった。
S社によれば、テーマがテーマだけに、現役をリタイアした団塊の世代を中心に、熟年層に売れているとのことである。
女性の読者も多いらしいが、私にしてみれば狙いどおりだった。
地元の有力書店であるM書店はS社の協力を得て、県内16店と県外8店の全店で特設コーナーを展開し、『遺すべき言』の大量陳列をしてくれた。
私も土日には各店でサイン会に応じている。

そして、次の台風がやってきた。『遺すべき言』の2つの作品が、その年の上半期A賞候補になったのである。
さすがA賞、周囲の騒ぎは新人賞どころのものではなかった。
文学に縁も興味もない者でも、A賞の重みだけは知っているようで、友人や親戚、知人、仕事先などから、祝福の電話が押し寄せてきた。
まだ受賞したわけではないので、彼らの興奮をなだめるのに苦労した。
大体が、実質的に初めて書いた作品で、しかも初めての候補であるのに、そう簡単に受賞などするはずがないではないか。
F新聞には今度も1面にデカデカと載るわ、TVではF放送もNHKもニュースで流すわで、火に油を注ぐことになってしまった。
県は名誉県民にするといい、市では私の名を冠した文学賞を創設するといいだした。
事務所では職員が電話と来客の対応に追われ、とうとう仕事は完全にストップしてしまった。
自宅の方にまで電話や来客があり、カミサンはその応対にノイローゼ状態になり、挙句に実家に逃げ帰ってしまった。

いよいよ選考の日がきた。私はその日、東京のある料理旅館で、朝から焼酎のお湯割をなめていた。
まさか、1回目の候補で受賞することなどないと思っていたが、S社のKの勧めもあり、発表会場にすぐ駆けつけられるようにしていたのである。
Kから携帯に電話があったのは、酔いが回ってしまい、うとうとしていたときのことである。
「先生、やりました。受賞ですよ。『遺すべき言』が、N文学振興会のA賞選考委員会で、今年上半期の受賞作と決定したんですよ。おめでとうございます。先生、これから忙しくなりますよおぉ」
「はあ・・・・・・どうも・・・・・・あり、ありがとうございます。あのお・・・・・・嘘じゃあないでしょうね。ホントに・・・・・・私でよかったんでしょうか・・・・・・」
「あら、ちょっと、お客様。寝っころがって、何モゴモゴおっしゃってるんですか。大丈夫ですか」
旅館の女将が肩を揺さぶった。
重い身を起こすと、念入りに髭をそり髪に櫛を入れた。
背広に着替え急いで表に出、タクシーを見つけようと目を凝らした。
見慣れた自宅前の風景が、飲むのはいい加減にしろと笑っていた。

2013.3.19




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