■ 歩く会を楽しむR「北國街道(北陸道)鯖波一里塚から湯尾今庄境一里塚を歩く」2024.11.6


11月4日(月曜・振替休日)今年最後の「歩く会」旧北國街道歩きを楽しんだ。
前回不参加だった仲間が揃い、「晴れ男 3人寄れば 雲は退散」とばかりに、秋晴れでさわやかな南越路を快適に歩いた。

コースは、旧JR南条駅をスタートし鯖波宿を経て、旧JR湯尾(ゆのお)駅で休憩・おにぎり弁当を食べ、湯尾峠を越え、湯尾今庄境一里塚から今庄宿・旧JR今庄駅に至るというものだった。
今回は、これまでにない湯尾峠越えという難所があるので、仲間の誰もが戦々恐々として歩き始めたが、「案ずるより産むが易し」トラブルなしに無事(?)踏破を終えることができた。

歩行距離は予定オーバーの約13.5qだったが、旧JR今庄駅で帰りの列車に予定通り乗車したので、余裕ある1日になった。
さらに、下見(試歩)のときには、見逃したり不明の目的地があったものの、確認することができたので、スッキリ・納得・充実した「歩く会」に満足した。

これで、目的の一里塚20のうち18塚を踏破し、未踏破は次の2塚となった。
 旧今庄町 鹿蒜(かひる)一里塚(南今庄一里塚)
 旧今庄町 二ツ屋一里塚
残念ながら、異常ともいえる猛暑続きで、年内の完全踏破達成はできなかったが、来春の楽しみに残しておこう。
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10:38 南条駅 下車
@関ケ鼻・鶯の関跡 関ケ鼻は武生への要所で関所が設けられていた
A鯖波の一里塚跡 鯖波宿本陣跡の裏 線路近辺 大樹がある辺りにあったらしい
B鯖波宿本陣跡  旧鯖波本陣石倉家には「明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)之處(しょ)碑」が建つ
C明治天皇御膳水碑 白山神社脇 鯖波トンネルの出入口に建つ
D鯖波トンネル  歩行者専用 旧街道のバイパス(?)として1992年に穿たれた
E初音の小坂碑  芭蕉はこの坂にきて初めて鶯の声に心をうばわれた
F湯尾宿高札場跡 湯尾宿では山口家が本陣を務めた
G湯尾峠・標高200m 湯尾峠入口から峠に向かう 血頭(ちこべ)池・馬の水飲み場がある
H茶屋と石垣   峠頂上には四軒の茶屋があり大いに栄えた 石垣が往時を偲ぶ
I孫嫡子神社   疱瘡(ほうそう)の神を祀る 四軒の茶屋がそのお守り札を配布した
J明治天皇湯尾峠御小休所碑 街道沿いには多くの「明治天皇碑」が建つ
K松尾芭蕉句碑  「月に名を つつみ兼ねてや いもの神」(明るい月の光に、疱瘡(ほうそう)を流行させる醜いあばたの神も、その正体をあらわし退散するだろう)
L湯尾城跡    四方が見渡せ街道封鎖監視のために築かれた 2つの堀切を確認
M湯尾今庄境一里塚跡 一里塚跡の標柱が建つ 親鸞や芭蕉もこの路を歩いた
N今庄宿入口   入口は宿場特有の矩折(かねおり)(屈曲)になっている
O御札場跡    旧西尾家は藩札と金銀を両替していた
P京藤家     うだつの上がる脇本陣格で あの水戸天狗党も宿泊した
Q今庄宿本陣跡・明治天皇今庄行在所(あんざいしょ)碑 大庄屋後藤家が本陣を務めた
R今庄宿脇本陣跡 昭和会館の前庭に「脇本陣跡」の標柱が建つ 本陣予備宿である
16:21 今庄駅 乗車
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Aの「鯖波の一里塚跡」だが、事前に南越前町教育委員会に問い合わせると「鯖波宿の本陣を務めた石倉家の裏、旧JRの線路の近辺 大きな木がある辺り、と推定される」との回答を得た。
したがって当然、場所の特定はされていず案内板や標柱もない。
そこで10月6日に下見(試歩)した際に、石倉家本陣跡の空き地で作業(銀杏を洗っていた)をしている60年配の男性に訊ねてみた。
すると意外にも「さあ〜私は石倉だけど一里塚なんて知らないなあ」と返ってきたので、驚いた。
ところが、奥さんと思われる品のある方が「近所にそんなことに詳しい男の人が居るので知っているかも」と言って、わざわざ構えの立派な家に案内してくれたのだ。
大いに期待してワクワクしたが、やはり高齢のその方も「分からない」とのことだった。
地元も地元、一里塚の傍(そば)に子どもの頃から住んでいた石塚さんも、その近所の物知りの老人も全く知らないという。
仕方なく、名前・住所・電話をメモした紙片をお二人にお渡しし、暗澹たる思いでその家を辞した。
そのあと自分なりに熟考してみた。
大体が教育委員会のいう「本陣石倉家の裏」というのがおかしい。
もしそうであれば、一里塚は街道から逸(そ)れ、しかも裏側にあったということになるではないか。
そんなバカなことはない。
そもそも、一里塚は江戸幕府が街道の里程目標として、一里ごとに土を盛って設けた塚なのだ。
今回の「歩く会」の本番では、この疑問解決が絶対的な課題となった。
鯖波宿に入った私は、目印となる「大きな木」を懸命に探した。
「旧JRの線路の近辺」にはどこを探ってもそんな木はない。
大体がこの辺りでは、JR線路は何度も敷設(ふせつ)替えがされており宿場側に寄ってきているから、教育委員会が言う「線路の近辺」というのが怪しい。
そこで線路に拘らず周辺に目をやった。
すると線路の東側、日野川の堤防に走る国道365号線の川側の壁面に大きな木が確認できた。
欅(けやき)と思われるその木は、場違いとしかいえない所に堂々とそびえていた。
「おそらく街道は、本陣石塚家から北へ10メートル程(住宅案内板の傍(そば)の路地)で東に折れ、国道365号線に行き当たり北に屈曲し、すぐに大きな木のある一里塚を経てあった」のではないだろうか?
とにかくこの辺りの交通事情は、鉄道も道路も大きな変遷を繰り返し地形が何度も変わり、街道そのものがその歴史に翻弄されて迷子路になった感がある。

Eの「初音の小坂」は、下見(試歩)の際は見逃して悔しい思いをしたが、今回は地図を丹念に調べておいたので簡単に確認することができた。
石碑には「うぐいすの 初音きかせし しるべかな 乙丑鶴堂」とある。

Lの「湯尾城跡」は、下見のときは疲れて登る元気がなかったが、今回は仲間が励ましてくれたこともありしっかりと確認でき、モヤモヤが晴れ本当に良かった。

Nの「今庄宿入口」であるが、地図上で調べてもどこにもなく、関連の書籍や資料・パンフレットでも確認できていなかった。
仲間がたまたま予定コースから逸(そ)れて、偶然見つけたのだ。
地図や様々な資料を調べても、そこにある街道の道筋そのものが正確ではないことを、思い知らされた。

2024.11.6




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